不勉強が身にしみる

いやー、最近光文社の新書は面白いものがいくつかあるなぁ。よいよい。
本書もなかなかいい本。著者が実際に子供ができてどういったことを子供に対して教えようか、そのためには親はどうあるべきだろうかと実感していることをつらつらと書いているんだけど、自分としてはまだ子供もいないせいか自分がどういったことを勉強すべきかとかどういう意識を持つべきかという点で参考にさせてもらった。
特に、歴史認識に関する章は結構興味深くて、正しい歴史認識なんてないって事は周知というか意識していたけども、司馬遼太郎はなんで歴史学者にならずに歴史小説家であり続けたかという部分や、歴史教育愛国心は関連付けるべきではないといったあたりはかなり同感。
ただ、最近は子供が興味を持つように教育することが至上命題のようになっているので、歴史を教えるに当たって物語を作ってしまうのは仕方のないことのような気がして、どうやって歴史観と史実が異なるのかということを学生に教えるのはかなり難しいことのような気がする。
著者も書いているように、このような正解のない問題を扱うということは難しいけれども絶対に必要なことであると思う。
このように正解のない問題を教育の中でどう扱うかということに関して私が前々から感じていることは、やはり生徒の間で議論をするべきだということだ。例えば、教師が参考資料や参考文献を提示してその資料や文献に基づいて、一つの課題を提示する。そして、生徒はその課題に対して何らかの回答を容易させて授業で議論するという方式である。まあ、大学などでは取り入れられているかもしれないが、こういった授業をもっと早い段階で取り入れるべきなのではないだろうか。勿論全ての授業をそういった形式にするべきだとは思わない。詰め込むべき知識はあるだろうし、そういったものを教えるには講義形式の方が向いているだろう。
ただし、正解が一意に決定しないものに関しては議論を通じて全体のある程度の一致点のようなものに到達させ、その後で教師の見解を述べるというのがよいのではないだろうか。
このような形式の授業を行う際に教師に求められる資質としては

  • 生徒のレベルにちょうど良い参考資料と課題の設定
  • 議論の流れをある程度リードする
  • 提示した課題に対する教師なりの解答

といったものがあるだろう。
ある課題に対して教師も解答を出すことで、教師がどういった思考を辿ったのかということが示すことが出来るため、ここは非常に力を入れないといけない。
私が考える注意点として、生徒の評価基準を教師の解答と近いかどうかで判断しては絶対にいけないということだ。こうしてしまうとどうしても教師が好みそうな案に議論が収束してしまって広がりがなくなってしまう。これでは、これまで行われてきた講義形式の授業をただ効率が悪い方式で行うだけになってしまう。
と、まあ最近思うことを書いてみるのです。